where the sidewalk ends

割と長文で泣き言をいうところ。

2016年抱負

シンプルというのは、超過剰から削ぎ落とし切って残ったもの、というのが、新年一発目の印象的な言葉でした。
言葉も、サービスも、絵画も、ダンスも、優しさも、食物も、受ける技術・機構・素養が無いと、それを主体として受け取る事が出来ない。見聞きし、触り、されることは出来るかもしれない。だけど受けることは出来ない。

240kmの道程をぶっ飛ばして、12年前に頂いた祝福をお返ししてきました。そして新しく頂いてきました。僕はすごく幸福だと思う。

花が枯れることと種が残ることは、確かに同じ事ではない。だけど花が落ちなければ、種は種として土に落ちる事が出来ない。終わるべきものを、然るべき時に、然るべき方法で、埋葬すること。そして弔うこと。惜しむのではなく悼むこと。それがすごく大切なことだと思う。
例えばソメイヨシノとか、アンチエイジングとか、その理から外れた者達には、新しい祝福と葬いを、用意してあげなければならない。

例えば社畜とか、バブル期や軍隊と、同列に揶揄されるのを良く耳にします。やつ当たり承知で、だけど違うと思う。
その時には神様がいたし、祝福があった。経済成長でも国でもなんでも良いのですが、第三者の審級や、大きな物語の
視線の中に含まれていた。
今の僕らには残念ながらそれがない。あるいはすごく薄弱で、それでも僕らは後輩や子供や希望を、新しい社会や未来を、祝福しなければならない。

今年僕は30歳になりますが、僕の敬愛するcoccoが30歳になる時に、野生動物の寿命はだいたい30年くらいだから、これから私は人間として生きると言っていて、今ならその意味が少しわかるような気がする。

2016年は、そうやって生きたい。
今年もどうかよろしくお願い致します。